昭和45年県立山形西高等学校卒業
昭和49年お茶の水女子大学卒業
昭和49年リクルート勤務(~52年まで)
昭和52年帰郷し義父母と同居
昭和56年子育てしながら行政書士の資格を取得
平成10年山形市総合学習センター勤務
平成12年行政書士開業
この間、山形県総合政策審議会委員をはじめ、山形県教育委
員会委員などを歴任
平成21年2月山形県知事就任(現在3期目)
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政治家になりたいと思ったことは全くなかったのですが、政治は大切なものだという認識は持っており、20歳以来選挙の投票を欠かしたことはありません。平成20年に、山形県をもっと変えて欲しい、魅力を生かして欲しい!という考えをお持ちの全県内の方々から熱心に勧められ、とても悩みましたが、最後には「誰もいない」と言われた時には、このままではいけないと思い、立候補を決意しました。山形県は大好きでしたし、背中を押してくださった方々と同様、私も山形県をもっともっと良くしたいという気持ちが当時はとても強かったです。
毎朝、山形県民の幸せと山形県勢の発展を祈ってから、私の一日が始まります。平成23年からは、東日本大震災からの復興も、毎朝の祈りの中に加わりました。日々、そのことを原点に「対話重視」と「現場主義」を肝に銘じながら、できるだけ多くの県民の方々とお会いし、心の通う温かい県政に全力で取り組んでいます。
東日本大震災が発生した際の瓦礫の受け入れや肉牛の全頭検査など、多くの決断の時がありましたが、特に印象深いのは、やはり最初の知事への立候補だと思います。出馬のを熱心に打診され、考えに考えて決心したのが、人生の大きな転機でした。両親や子どもたち、兄弟姉妹に相談したら、それぞれ異なる意見をもらいました。しかし、YESかNOか、最後は自分が判断しなければならない。時には実家の今は亡き両親のお墓の前で、二人の声に耳を傾けたこともありました。そして考えに考えて、出馬を決断しました。その後は全く迷うことなく前進するだけでしたし、反対していた方々も全員応援してくれ、とても心強くかったです。
律儀に毎日自分の仕事と誠実に向き合っているひと。社会のために、子を育てるために、毎日汗を流して働いているひと。私はそういう大人を心からカッコイイと思います。以前、堅調に中堅の俳優さんがいらっしゃった時、男性職員たちが「かっこいい!」と言いました。しかし私は、「いや、日々子どもたちを育てるために一生懸命働いている、あなたたちの方がかっこいいよ!!」と言ったんです。私も『山形を良くしたい』という強い気持ちと、『子ども達に人間としての生き様を見せたい』との思いのもと、働いています。寡黙で一生懸命働いている山形県民が一番カッコいい!!
勇気と優しさを持って、困難な課題にも果敢にチャレンジし、山形県の価値を高め続けることです。山形県民のためにという強い新年をブレることなく持ち続け、県民との対話を重ねながら、心の通う温かい県政を全力で行ってまいります。高速交通ネットワークの装備や人材育成、産業イノベーションに取り組み、健康安心社会を実現し、”自然と文明が調和した新理想郷山形”を目指してまいります。常に時代の先を見据え、広域連携、交流人口拡大にも力を入れていきます。
日本はこれまでも大きな試験や困難を乗り越えてきました。大きな自然災害にあっても、助け合い、支え合って、今日の日本を築いてきたのです。そのDNAは若い方々にも受け継がれます。辛いことがあっても、みんなで助け合えば乗り切れると信じています。私自身、最愛の夫が病気で他界して、精神的にドン底までいきましたが、周囲の人の優しさに救われました。人生で体験する全てのことが、後々役に立つものです。何があっても諦めないで、希望を捨てず前へ進んでいきましょう!
旅行先で亡き夫が買ってくれた時計。夫が闘病生活をしている時に、私が誤ってこの時計を病院の床に落としてしまったことがありました。その時夫に「長く大事に使えよ」と優しく言われたことが忘れられません。一生大事に使います。
スカーフとか名刺入れとか、お気に入りのアイテムは他にもいくつかあるのですが、特に気に入っているものの中の1つになります。山形県の花”紅花”と生産量・質共に日本一を誇る”さくらんぼ”が一緒になっています。知事就任時に、酒田の御婦人からいただいた手作りのブローチです。紅花が咲く初夏の季節に愛用しています。