プロ野球選手時代の髪型だったパンチパーマがトレードマークであり、芸名の由来ともなっている。武相高校から亜細亜大学に進み、同野球部に入部。社会人野球の熊谷組を経て、1989年のドラフト1位でオリックス・ブレーブスに入団。記憶に残る選手として活躍。引退後は、芸能界という新たなステージにフィールドを移し、活躍中。「元気配達人」としてテレビ・CM・ラジオなど出演多数。
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幼少のころは一言で言うと、貧乏な少年時代でした。経営していた会社が倒産し、さらにヘルニアを患った父は思うように働けなくなってしまいました。それでも野球をしている時だけは「お金がある・ない、勉強ができる・できない」ということを忘れることができたのです。唯一ヒーローになれる瞬間でした。プロ野球選手になろうという気持ちは特にありませんでした。野球を自分の『必殺技』にして、良い企業に就職できればいいと思っている程度でしたね。
高校生になってから自分の将来について真剣に考えるようになりました。「貧乏でいるのは嫌だ」という気持ちは変わらずにあったのですが、自分の思う良い企業に入れるだけの成績は取れずにいましたので、「自分には野球しかない」と思うようになっていました。大学卒業後は、熊谷組に入社し、社会人野球においても活躍することができました。ソウルオリンピックをきっかけに、プロ野球からの誘いを受け、驚きながらも球界への扉を開きました。
1989年ドラフト1位でオリックス・ブレーブスに入団。1年目は結果を残すことをできたのですが、監督との折り合いがうまくつかず、2年目以降の出場機会はなかなか増えませんでした。しかしながらプロ5年目になり、ずっと憧れていた仰木彬監督のもとでプレーできることになりました。「仰木監督でも駄目だったら、もう諦めよう」と思いながら、シーズンに臨みました。そのシーズンが終わり仰木監督にフィードバックをいただいた時が引退を決意した時でした。「お前は足は遅いし、守備は下手。レギュラーにはなれない。それでも、バッティングは最高なんだ。」尊敬をしている仰木監督だったからこそ、その言葉の意味を真剣に考えたんです。家族のことを考えると『ピンチヒッター』として活躍するだけでは駄目と思い、プロ野球引退を決めたのです。
『うさぎとかめ』で例えるならば、私は亀でした。うさぎが鼻ちょうちんを膨らまして寝ている隣を、努力をして追い抜いてきたのです。「一歩一歩と」歩んでいたとしても、必ず夢はかないます。これからも自分らしく、ゆっくりでも良いので目標にむかって歩んでいきたいと思っています。
熊谷組に在籍していたころ、都市対抗野球でサイクルヒットを打った時に上司にお祝いで買ってもらったものです。24歳の時からずっと肌身離さず着けています。
愛犬の写真です。ロケなどで地方に行く事も多いため、「いつも一緒にいる」気持ちになれる写真です。