1980年12月フジテレビ系「笑ってる場合ですよ!お笑い君こそスターだ!」でチャンピオンになったのを足がかりに芸能界へ。1982年には3月、ビートたけしの一番弟子となり、翌年結成のたけし軍団」の中心人物となる。2007年1月 第52代宮崎県知事に就任。独自の感性を政治行政に生かし宮崎県を改革。テレビ等にも多数出演し、地方からの声を発信し続ける改革派の知事として、地方行政をリードし、任期満了のため退任。
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小学生の頃、「将来何になりたいか」という先生の質問にフランス人になりたいと答えていたそうです。小学校5、6年になった時に、フランス人になる夢を諦めまして、将来はお笑い芸人と政治家になりたいという夢に変わっていました。そのための具体的な行動として、中学2年の時に家出をしています。あえなく補導されてしまうという結果に終わったのですが、東京へ行って夢を叶えたいという気持ちは強く、東京の大学を受験しました。
進学で上京したものの、どうしたら「夢」に近づけるのかということばかりを考えていたので大学へはほとんど行きませんでした。テレビ番組「金ドン」にネタを送って採用されたことが、お笑いの道へと進むきっかけになったかと思います。大学卒業後にお笑いコンビを組み、「笑ってる場合ですよ」(現「笑っていいとも」の前身)という番組で5週連続で勝ち抜き、チャンピオンになりました。当時、私は偶然目にした「2ビート」の漫才によって衝撃を受け、ビートたけしさんの弟子になりたいと思っていたのです。そのために漫才チャンピオンになり、弟子入りの直談判をしました。
エピソードというといろいろありますが、いきなり断髪式をされたことが印象に残っています。その経緯というのも、元大関貴乃花(現貴乃花親方の父)が引退する時、たけしさんが招待されなかったことで「誰かを断髪したい」と言い出し、私が断髪されることになりました。改めて、師匠の言うことは絶対なのだということを感じました。
お笑い芸人を25年続けてきて、自分の中で一括りができたという気持ちがありました。1998年の不祥事をきっかけに自分の生き方を変えてもいいのではないかと思いました。そこで、もうひとつの「夢」だった政治家への道へ進む決心をしました。その後、早稲田大学政治経済学部へ入学し、地方自治を専攻しました。当時は国政か地方行政かは考えていませんでしたが、その時に(前)宮崎県知事が不祥事によって逮捕・辞職するという事態が起きました。それを受けて、宮崎に帰ることにしたのです。後に、宮崎県知事選に出馬させていただき、おかげさまで当選するに至りました。
私のやらないといけないことというのは、天命だと思っているのですが、「地域の再生」すなわち、地域の活性化です。現在の中央分権の政治の構図を地方分権の国家システムにしなければいけないと考えています。これは、私の最大の命題だと思っております。この実現の為にどうするか。それを宮崎から、宮崎モデルとして発信できると良いなと思っています。
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昔からこのサイズのノートを使ってきました。昔はネタ帳に、今は政策立案やアイデア用として重宝しています。