1982年、ハワイ大学付属高校卒業後、高見山 (現在の東関親方)にスカウトされ高砂部屋に入門。7月場所初土俵。1983年、11月場所十両に昇進。1984年、7月場所新入幕。1987年5月場所後、大関に昇進。1989年11月、場所幕内初優勝(14勝1敗)。1994年2月1日、日本に帰化。1997年、11月場所を最後に引退。1998年1月「'97毎日スポーツ人賞」感動賞受賞、「第32回テレビ朝日ビッグスポーツ賞」スポーツ放送特別賞受賞。2月「都民文化栄誉章」受賞。9月「ユネスコ国際フェアプレー賞」トロフィー受賞。「第15回ベストジーニスト'98」受賞。11月「第38回ACC・全日本CMフェスティバル」タレント賞受賞。12月「ゆうもあグランプリ」受賞。1999年3月「ザ・ヒットメーカー'99」受賞。12月「今年のCMキング1999」男性部門1位。2001年10月 「第14回日本メガネベストドレッサー賞」芸能部門受賞。
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わんぱくな少年だったと思います。いつも笑いが絶えない家庭で、子どものころから家族以上に大事なものはないと思っています。家庭は貧しかったですが、楽しい思い出ばかりです。子どもの時は、サッカー選手になりたいと思っていました。中学生になった時には、FBIに興味を持ち、法律の勉強などをしたこともありました。
知り合いに、「日本で相撲という競技をやらないか」と誘われました。18歳の時に、高見山関で出会ったことが大きなきっかけだったと思います。ハワイから飛行機に乗って日本に着いた時の記憶は残っていませんが、反対した家族の顔であったり、空港のにおいなどは今でも覚えています。
ハワイを出て、日本で相撲をすると決めた時が覚悟の瞬間でした。泣きすがる母親に「大丈夫、大丈夫」と自信満々に言ってのけていましたが、心の中は不安でいっぱいでした。
2年目で獲得した金星(対千代の富士関)は今でも印象に残っています。「負けて当然だ」という気持ちで、無我夢中で戦いました。有名になった実感もありませんでしたし、相撲を続けるうちに、続けることへの恐怖が芽生えてきたことも事実です。勝てなくなって、親に自殺したいと相談したこともありました。それでも、稽古は楽しかったです。また、引退は自分でも驚くような形で訪れました。自分が引退したことを、他の人が話しているのを聞いて知ったのです。家族も日本に呼んで応援をしてくれていたのに、戦う姿を見せることができませんでした。引退後の人生は想像もできませんでした。
やっと、身も心を元気で健康になりました。これからは日本全国自分の足でCDを配って歩きたいです。お世話になった日本とハワイを、仕事を通してコラボレーションさせたいと考えています。
譜面が読めないので、ウクレレは見て覚えました。
ハワイアンシャツでも、日本で作ったものはやはり質が高いと思います。ですので、好んでこちらを着ています。