東京都千代田区外神田生まれ。1984年に東京大学法学部を修了後、自治省(現:総務省)に入省。本省勤務の他、兵庫県や福井県への出向も経験するが、1995年(平成7年)9月よりアメリカ合衆国へ派遣され、1996年1月からカリフォルニア大学バークレー校政府制度研究所客員研究員へ。その後1999年、鳥取県庁へ出向し鳥取県総務部長に就任し、2001年には当時全国最年少で鳥取県副知事に就任する。2006年には自治体国際化協会審議役・ニューヨーク事務所長も務め、翌年2007年、無所属で鳥取県知事選挙に出馬し、初当選した。2019年、現在鳥取知事4選し、現在に至る。
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偶然からこうなっています。もともと大学生の時、国際アビリンピックに日本赤十字のボランティアとして参加したことが、今取り組んでいることのルーツです。その時出会った同志の皆様によって以前働いていたこの鳥取県へ呼び戻されました。人口が最も少なく、放っておくと忘れられてしまうのではないかという切迫感を持っております。鳥取県は鳥取県の良さを持ち、鳥取県なりに発展していく、その地域・人のために生きる人生があってもいいと考え、公務員になりました。
鳥取県は小さな県ではあるが、大きな自治体と十分勝負ができます。全国初の手話言語条例をはじめとする福祉政策で全国をリードしてきた鳥取県。東京にはできない少子化対策、出生率の向上も鳥取県では果たすことできました。保育料無償化、医療費助成なども現場の声を聞き進化させてきた結果です。小回りを利かすことができれば十分勝機はあります。令和の新時代は大都会ではなく、むしろ鳥取県に住みたい・行ってみたい・仕事がしたい、そうした声に応えられるよう、挑戦のステージを作ってみたいです。
これからまだいろんな道や生き方も選べたかもしれないが、それを全て捨てて帰ろうと志を固めた時です。正直、現職に就くまで家族からの意見は反対ばかりでした。しかし、ある時妻の弟が40歳ほどで他界された時に、妻が「やりたいことがあるなら、やったほうがいい」と後押しされ、今の私がいます。最近は尾崎放哉の「いつも机の下の一本足である」という句に、いつも自分を重ねます。県民の皆様や地域の下支えとして、目立たなくてもそうした役割を果たしていくことに徹する、いわば「県民の道具」として生きていきたいです。
革新的でユニークな発想で新しいものを生み出していく人です。様々な困難局面でも、豊かな発想力と迅速な判断、そして実行力をもって解決への筋道を導くことができる人。前例や普通といった概念に捉われずに生きる人は、今後の地域社会にとっては欠かせない存在ですし、私も常にそんな大人でいたいと思います。
鳥取県は、コンパクトにまとまり小回りが利き、支え合う地域の絆もあります。県民や地域の企業等は顔の見えるパートナーであり意思決定も迅速で円滑な連携も可能です。全国に先駆けたモデル的な政策を思い切って展開できる鳥取県は十分勝機はあると思います。幸せの形や価値観が変化し始めている今、大都会を追いかけるのではなく、この鳥取県から新しい幸せの形・価値観を創っていきたいです。
政府の地方創生の取組にも関わらず、東京一極集中の傾向が続いています。日本の明るい将来のためには、地方が活力を取り戻し、地域社会が維持・発展していく必要があります。そのためには若者の力が欠かせないと思います。若者のUターンや様々なチャネルで鳥取県とかかわりを持つ人を増やすなど、地方創生のモデルとなるような取組を全国に発信していきたいです。挑戦がないと、何事も前に進まないと思います。
鳥取県の特産である松葉ガニの爪の形をしたボールペン。予想に反しインクの色は黒。鳥取県はカニの水揚げ日本一。カネはないけどカニはある。「鳥取県へウェルカニ」。
軽快に走れます。
ただ、走り過ぎて疲労骨折したことも。