高校時代に放送作家を志し、19歳で放送作家デビュー。バラエティーを中心に多くのヒット番組の構成を担当。映画・ドラマの脚本や舞台の作演出、エッセイや小説の執筆、CMの企画や監督等さまざまなジャンルで活躍。
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中学・高校の頃からテレビが大好きで、僕が子供の頃、80年代中盤はテレビがキラキラしていた時代だったんですね。高校2年生くらいの頃に「夢で逢えたら」という番組があって、ウッチャンナンチャンさんやダウンタウンさん、野沢直子さん、清水ミチコさんが出てらっしゃる番組だったんですが、とても手作り感・作り手の匂いというものを感じたんですね。その時に「こういう番組の作り手になってみたい」と強烈に思ったのが放送作家になりたいと思ったきっかけです。新人時代を含めると19歳から放送作家になったわけですが、新人時代は大人に認められたくて認められてたくて、どうやったら大人に認めてもらえるんだろうということしか考えていませんでした。目の前の人はどうやったら僕のことで笑ってくれるんだろうと。この業界は面白い人がたくさんいますし、20代後半、30代の人はいろんな人と会っているので、山ほどいるようなテレビ好きの一少年に興味がないんですよね。だからこそ目の前の大人を振り向かせたくてたまらなかったですね。
放送作家というのは非常に好奇心が強くないといけない職業だと思っているんですね。「人生すべてが企画になっている」人が強いと思っています。普通だったら人に話さないであろうことを会議で話してそれが企画になる、新しい番組が生まれる、だからこそ日常で起きたことが僕たちの血となり肉となるので、そういうところが素敵だと思いますし、大好きなところです。
僕が放送作家になった時に半年先に入った先輩がいたんですね。その人はある事情で大学を退学になっていたんです。なんとその人は明治大学替え玉受験の受験をした方の犯人だったんですね。その当時ニュースを見ていた僕からしてみれば「せっかく明治大学に入ったのに、そんな事件で退学になるなんて人生終わってるじゃん」と思っていたんです。ところが、その人自身は事件を起こしたことは申し訳ないと思っていたものの、周りの人がそのことを”武勇伝”として語るんですね。世の中でマイナスだと思うことがプラスになるのが僕らの業界だったりするんです。だからこそこの仕事をしていく上で、放送作家としての付加価値を生むこと、それが大事なんだと気付けたのではないでしょうか。
この世界のお給料だけで食べていけるかなという時が来て大学を辞めることにするんですが、その時に退学届を大学に持っていくんですね。部屋に入って退学届けにハンコを押してもらった時に「はい、ありがとうございました」と言われたんです。その時に僕が何を思ったかというと「止めないんだ!」と思ったんですね。 大学を辞めていく僕のことなんかどうでもいいんだ、と思ったんです。これはどの大学でも同じことだとは思うのですが、その時に「世間は僕に興味がないんだ」ということに猛烈に気づいたんですね。だから大学のその部屋を出て校門に行くまでに数百メートルのストロークがあるんですが、その間が一番不安なんだけどワクワクした瞬間で、大学の校門を一歩出た時が一番覚悟の瞬間だったと思います。
自分のこれからの人生の中で気づいたことを一生発信出来たらいいと思いますし、少し世間と戦っていけたらいいと思います。僕が本当に尊敬する人の一人に伊丹十三さんがいらっしゃるのですが、伊丹さんの発信される作品は自分が作りたいということやメッセージをちょっと笑いにしたりだとか、エンターテインメントにしたりというところがすごい素敵だなあと思うんです。これから自分がもっと歳をとっていくにあたって、自分が感じたことや社会の不満や憤りなんかをあくまでエンターテインメントとして発信していけたらいいなとおもっています。
僕にとってのカッコイイ大人の代表格は高田純次さんなんです。なんというか、すごく男気があるのにそれを隠しているんですね。あのいいかげんさやくだらなさやエロさの中の芯にはすごく自分が大切にしているもの・信頼しているものがあるんだなと思ったので、ただくだらない大人にはなりたくないですけど、何か中に芯が通っていながら「この人くだらない生き方しているな」と思われながら生きていきたいですね。
打ち合わせの際いつも使用しています。これがないと落ち着きません。