日本の元サッカー選手、元サッカー指導者、元参議院議員、実業家。現日本サッカー協会名誉副会長。 府立山城高校、早稲田大学を経て、ヤンマー入り。日本サッカー史上最高と言われた不世出のストライカー。1968年メキシコオリンピックでは7得点を挙げ、得点王に輝くと共に、日本代表の銅メダル獲得に大きく貢献した。現役引退後は、日本リーグのヤンマー・ディーゼルやJリーグのガンバ大阪の初代監督を歴任し、96年に就任した日本サッカー協会の理事、副会長として11年目を迎える。
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私たちが子どものころはスポーツ少年団などなかった時代でしたので、ただ学校の中でサッカーをやっていただけでした。今のようにサッカーがメジャーなスポーツではなかったので、実は野球をやりたかった気持ちもありました。しかし、周りから「サッカーをやれば、オリンピックに出て海外に行ける」などと甘い言葉をかけられた私は、すっかりサッカー少年になっていました。
私の出身の小学校は体育の時間や放課後などはずっとサッカーをしていまして、当時にしてみたらある意味特殊な学校だったのかもしれません。それは京都には京都紫光サッカークラブ(京都サンガF.C.の前進的存在)に所属していた先生が各学校に散らばっていたからでしょう。先生たちがサッカーの練習をしているところに混ざって生徒たちも一緒にサッカーを教えてもらっていたのです。それがサッカーを始めたきっかけです。
1968年のメキシコオリンピックで銅メダルをとったことは、私にとってサッカー人生で最高の舞台だったと言えるでしょう。当時日本ではメジャーでなかったサッカーで、世界第3位をとれるなどとは日本国民のだれも予想していなかったことだと思います。FWというポジションは負けず嫌いの自分の性格にぴったりだったのでしょう。あれだけ活躍できたことは、当時24歳で体力も有り余っていたことも起因しているかとは思います。
子どものころに始めて、40歳で選手生活を引退するまでサッカーを続けてきた私ですが、「サッカーで食べている」意識はありませんでした。なぜなら、1993年にJリーグが発足するまではヤンマーという企業に所属してサラリーマンとしてサッカーをしていたのであくまでアマチュアだったのです。41歳の時に、指導者としてサッカーに向き合っていくと決めた時が「覚悟の瞬間」と言えるでしょう。それまでは会社に所属する人として給料がもらえたわけですが、そうではなくて「サッカーを子どもたちに、人々に伝えていきたい」という思いでサッカーの指導を始めたことはやはり大きなターニングポイントでした。
41歳でサッカー指導者になり、現在の私の使命はサッカーを教えて、選手を育てて、日本のサッカーを盛り上げていくことだと思っています。それを言い続ければ、応援してくれる人が出てきます。どれだけリスクを背負いながら、その使命を果たすのかというところが大切なところです。「サッカーというものがなかったら、釜本という人間ははなにをするんだ」自分の胸の中に置いておくのではなく、これからの人に伝えていくことが私の使命であり、だからこそ自分の体が動かなくなるまで、言葉が出なくなるまで、サッカーに関わっていきたいと思うのです。
兵庫県豊岡市にあるメーカー、織人ORIGIN(オリジン)のバッグで、1年ほど前に妻からの贈り物でもらいました。基本的に物に固執しないタイプなのですが、今もよく使っています。
もともとはシルバーの時計を持っていたのですが、海外で紛失してしまいました。その後、それを知った友人からこの時計をいただきました。