1978年8月関西学院大学文学部2年の時に父である桂米朝に入門。「桂 小米朝」という芸名で、噺家生活が始まる。2008年10月、桂米團治という名称を襲名。全国各地で「五代目桂米團治襲名公演」を開催。
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幼少のころから体が弱く、小児ぜんそく持ちだった私を鍛えるべく母が近所のサッカースクールに私を通わせました。スポーツ少年団という社会法人の組織で、リーダー講習会に参加させられるようになり、国際交流の行事にも加わりました。高校2年生の夏休みには、西独でホームステイも経験しました。
高校の時に1度、噺家になる事を父(米朝)に相談した事がありますが、「おまえは向いていないから、やめておけ」と言われ、その後はそのつもりはありませんでした。しかし大学生の時、米二さんから、「明くん(本名)、噺家になるなら大学卒業してからではおそいで!」と言われました。その後、ある席で枝雀さんが父に「明くん、噺家にしましょうな」と言いさらに隣に居た、ざこばさんも「やったらええ!やったらええ!」とおっしゃって、そのまま父も納得。そのまま噺家の道に入りました。
小米朝という名前で、30年間落語家として活動してきましたが、2008年に米團治を襲名した事です。今までは、常に米朝という存在が自分の中にありキャリアを重ねていくにつれて、周りからも「いつ米朝を襲名するんだ?」と言われたりもしました。しかし、その事には違和感を感じていたときに米團治という存在に出会い、今までのいろいろな出来事がひとつにつながった感覚をおぼえました。
これまでも、自分が好きなクラシックと落語を融合させた公演をはじめ、2010年5月にはスコットランドで、イギリス人の前で英語で落語をするなどさまざまな事に挑戦してきました。これからも新しいことに常にチャレンジしていきたいですね。一方で、後進の指導も行っていきたいと思います。これは、落語の伝承もさることながら、自分自身の勉強にもなります。米團治になってから、第二の噺家人生がはじまったと感じています。
1か月が2ぺージ見開きでまとまって見られる事、月齢が書いてある事を基準にしています。月齢は、その周期で旧暦が分かります。旧暦は日本の歌や文学など季節や文化を色濃く表現されている部分があります。
消す事のできるボールペンです。決定したスケジュールでも変更になる場合もありますし、そういった時に対応できるようこのペンを使っています。