岡山大学医学部卒業。地方の病院を回り、オーストラリアに留学。5年間肺移植医として研鑽を積む。帰国後日本の移植医療を変えるため様々な世界初・日本初となる手術に挑戦。「大人から子供まで肺移植で治る人は一人残らず治す」という信念で突き進む。「情熱大陸」に2回出演。ほか出演多数。
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子供のころ釣りが好きで、釣ったばかりの魚のおなかをさばいたことがあります。その時に心臓が動いていたのに感激し、「人の体はどうなっているんだろう」と興味を持ったことが医師を志すきっかけでした。大学卒業後、医者になり小さな病院を転々とするうちに大学病院へ帰局しました。大学病院では当時国内初の肺移植に向け準備が行われていました。心臓外科医であった私は、肺移植患者のカテーテル検査を任され、国内第一例目の肺移植にドナー主治医として参加しました。しかし日本では臓器不足が原因でその後も肺移植件数は伸びず、年間3例ほどにとどまりました。このままでよいのか、移植医になるためにはこのまま日本にいていいのだろうかと悩み、2002年、移植先進国であるオーストラリアのメルボルンの病院の門をたたき、満5年間移植医として留学しました。
臓器が足りない日本だからこそ、与えられた臓器、つまり尊い遺志で提供された臓器は一つも無駄にしないという覚悟で、次々と革新的な手術法に挑んでいます。日本中の移植施設が移植を断念するような傷んでしまった肺でも、それを待ち続けている人にとっては宝の肺です。悪い部分を切り取り、残りを移植する分割肺移植の概念を厚労省に認めさせたのも私です。左右反転肺移植や体外臓器リカバリシステムの応用などアジアで初めてのケースも行いました。生体ドナーと脳死ドナーからの肺移植を同時に行うハイブリッド肺移植や、小さな子供に対する生体中葉移植、分割区域移植など、世界で初めてとなるケースも成功させています。
医者になったら病気は何で治せると思っていました。しかし目の前で亡くなっていく患者様に何もしてあげることができません。私がいろんなアイデアを出して新しいことに挑戦し続けるのは、ただ単に臓器が足りないからです。もし臓器がたくさんあるアメリカにいたら今のように新しいことに挑戦する必要がなかったでしょう。「臓器がないから移植できません・・・。」断ることは簡単ですが、臓器がないなら私が何とかしましょう、与えられた臓器は限りなく使いましょうという挑戦への動機はこの臓器不足にあります。
一人の紹介患者がいました。2歳の男の子です。意識もなく人工呼吸の管が入れられ、100%酸素が送られている状態で、肺は真っ白になり、余命数週間の状態でした。生体肺移植をしようにもお母さんの肺は子供には大きすぎて移植できません。脳死した子供からの臓器提供を待つ時間はありません。どうしようか、他に手はないのか。この時が私の覚悟の瞬間です。母親の左下葉を2つに切り、子供の両肺として植えるという考えが浮かびました。分割区域移植、こんなことができるのか、未知の手術に答えはありませんでした。肺はそもそも風船のような臓器であるため、分断すれば空気や血液が漏れてしまいます。切って捨てるだけなら簡単ですが、今回はどちらの肺も切って捨てるわけにはいきません。私の気持ち次第でこの子の運命が変わる。お母さんは前人未到の手術でも生きる望みがあるのならと手術に合意してくれました。やるしかない、この子を救うために世界初の手術を決断した瞬間でした。
私の究極の目標は心臓死肺移植です。脳死ではなく、日本で昔から死として認識されてきた心臓死に至ってからの肺でも移植できるよう医療技術、制度等を調整しています。肺は傷みやすい臓器、しかし死の間際まで酸素を吸って直接酸素に触れる臓器でもあります。肺移植という方法がありながら、それを受けることができずに亡くなってしまうことがないように、肺移植を望む患者すべてを移植できるような日が来ることを願ってやみません。
これはオーストラリア留学中から愛用している持針器と攝子で、移植の際にはなくてはならないものです。移植の前には必ずこの持針器と攝子でイメージトレーニングをしてから手術に臨みます。
ドナー提供の連絡がきたとき情報がすぐに見れるようになっています。夜中でも時間以内に判断して返信しなくてはなりません。個人用のスマートフォンは別にありますが、そういう意味では肌身離さず持っています。