大阪商業大学でピッチャーを務めるも、肩の故障のため選手生活を断念。1989年に近鉄バファローズにコンディショニングコーチとして入団。その後、アメリカでメジャー式の総括的なトレーニング理論を学ぶ。1994年からロッテマリーンズを経て、名将バレンタイン監督の下、1997年NYメッツに入団。現在はテレビ、雑誌など多くのメディアで活躍中。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 |
幼少の頃は、野球嫌いでした。当時、マジンガーZやデビルマンの『ヒーロー』ものに夢中でした。しかし、小学校2年生の時に、父親に連れて行かれたプロ野球の試合で野球が大好きになりました。南海VS太平洋クラブライオンズの試合でした。野村克也さんが逆転ホームランを放ち、小さなガッツポーズをしながらベースを一周している間中、周りの観客が立ち上がって拍手喝采でした。それを見た少年時代の私は、「人間でもヒーローになれるんだ」と初めて思い、そこから野球の魅力にどっぷりはまっていきました。
野球にはまった私は、父親が会社へ行く前にキャッチボール、学校から帰ってくると、近所の子供と空き地で草野球に明け暮れました。当時は非常に時間を短く感じていました。小学校4年生から中学校3年生まで、南海ホークスのJrチームへと入りました。
南海ホークスのJrチームの練習は、全員が同じ打ち方・投げ方をコーチから強要されました。中学3年生時、アメリカで野球を体験した時、皆がイキイキと楽しそうに野球をやっていることに驚きました。日本での野球はみな丸坊主で、練習も試合も苦しみながらやっていました。そのアメリカと日本の野球における温度差を感じたのが、大きなターニングポイントになりました。その時から、高校野球の監督になりたいと思うようになったのです。
浪商高校野球部在籍中に、過重な練習により肩を痛め、大阪商業大学時代も肩の痛みが抜けず、現役続行を断念しました。ケガで野球をやめていく周りの人をたくさん見ながら、「ケガをしないようなトレーニングを教える人になりたい」と思い、それからトレーニングの猛勉強しました。
これまで、野球をはじめ、周りの人をトレーニングしてきたが、今後はそれに加えて、自分自身のトレーニングにも力を入れていきたい。アンチエイジングを自身のカラダで実践・証明し、トレーニングの重要性を世に説いていきたい。
メッツ時代のユニホーム。
いつもカバンに入れて、勉強しています。高校時代は野球に熱中し、時間がなかったため、単語帳が必須アイテムでした。高校時代からの習慣で、今も単語帳で勉強を続けています。