高校時代はソフトテニスでインターハイに出場。卒業後、テニスで大分国体を目指した2006年、勤務先での事故で右膝から下を切断する大けがを負う。退院後の2007年、障害者陸上に転向するや、瞬く間に100 m、200 mで日本記録を樹立し、障害者アスリートとして鮮烈なデビューを果たす。事故からわずか2 年で2008年北京パラリンピックに出場し、100m6位、200m4位と、義足スプリンターとしては日本人女子初の入賞。 また、2012年ロンドンパラリンピックにも、走幅跳、100m、200mの3種目に出場。
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脚を失ったときに立つこと、歩くことが出来ませんでした。ソフトテニスに戻りたいと思ってリハビリをしていましたが、テニスは前後左右に動く必要がありました。それに対して陸上はまっすぐ走る動きなので、まずまっすぐ走ることを学び、それから左右の動きに応用しようと考えました。そして陸上の練習をしていくうちに、手応えを感じました。そのとき、特にこだわりが強いタイプではないですが、性格上、とことん極めるタイプなので、陸上をやっていきたいと思い、やり始めました。そこから北京オリンピクに向けては短いスパンで陸上に取り組みました。
陸上競技というもの自体がマイナー競技だと感じました。観客席にも身内しか座ってないという状況の中で、陸上競技でご飯を食べていくんだ、というプロ意識を持った選手が現れることで企業からも注目を浴びるだろうし、それが身内以外の一般の観客の動員にも繋がると思いました。障害者の陸上競技の存在をもっと多くの人に知って欲しいです。
アメリカに渡って四年間アメリカのナショナルトレーニングセンターでトレーニングを積みました。入れ替わりも激しく、昨日までいた選手がクビでいないこともありました。え、なんで一緒に走ってたのに、と思って、他のメンバーに理由を聞いたところ、同じ位のタイムで走れる人はたくさんいるし、と言われました。そのときに始めて、ここでは皆プロとして活動しているという、プロの重さを感じた。ここのトレーニングセンターの人たちは結果を残すことがベースであり、プラス自分というアスリートとしての魅力をどうアピールするか、というところまでやっていました。そこまでこだわるからこそ、アメリカという国が陸上大国として成長してきたんだな、と感じました。私もそういう選手にならなければならないし、そうなることでプロとして活動していくことに価値観が生まれるだろうな、というのはありました。現役である限りはプロとしてやっていきたいな、と思っていました。
5トンある鉄骨が脚に落ちてくるという事故にあったときに、最初から脚を切断という選択肢しかなかった訳ではなく、接合手術をするという選択肢もありました。しかし、とにかく一生を通じてスポーツマンでいたいという想いが強くありましたので、スポーツを死ぬまで続けるためには切断をした方が良いと、思いました。スポーツ選手として歩んでいくために、脚を切断すると決めたときが、覚悟の瞬間でした。陸上に対しては何があってもあ諦めない、と思っていますし、誰にどう邪魔されようが、全てをかけて全てを捧げられるもの、それがスポーツだったので、この覚悟の決断をしました。
来年のリオパラリンピックに向けて最終調整をしていくことも一つですが、2020年に東京でパラリンピックが開催されるので、皆さんの目の前で見守られながら、一人の強いアスリートとして、また日本の柱となるアスリートとして、日本に大きな結果をもたらしたいと思います。今回も世界選手権でフランスの選手が世界記録を大幅に更新しましたが、私は東京で世界記録を更新したいです。なかなか皆さんも生でパラリンピックを見る機会はないかと思いますが、目の前で夢をつかみ取っていくアスリートの姿を見ると、自分の叶えたい夢や見てみたい夢を思い描くことが出来ると思います。2020年の東京パラリンピックは、勇気のきっかけを渡せるような大会になって欲しいと思います。
熊本のH-DESIGNさんとデザインを考えて毎回カーボン製の板バネ(義足の部分)にラッピングをしています。自分の好きなデザインの世界に一つしかない義足で競技できるのはSpecialな気持ちにさせてくれます。
ドバイの大会に出場した際に賞金で購入。アラブ語で「maya No.1」と入れて貰いました。跳躍の前に眺めては気合いを入れています。いつかこの指輪の望む一番高いところで同じゴールドに輝くメダルを獲得したいと思います。