東京大学に現役合格(1965年)後、社会運動と出会い弁護士を目指す。1968年に司法試験に一発合格、経済的事情により翌年東大中退、司法修習生となる。1971年に弁護士登録。2度のイソ弁生活を経て1983年に独立。以降現在に至るまで、「東京市民法律事務所」を経営する傍ら、サラ金、ヤミ金被害者救済をはじめとする消費者問題に取り組む。
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私が生まれた愛媛県田之浜は、半農半漁を営む村でした。山へ行ったり、海へ行ったり、楽しくて仕方がありませんでした。家は半農半漁で生計を立てており、生活が厳しくなった時、海を渡り大分県に開拓に入りました。朝、空が白み始まるくらいの時間から家族で畑を耕すというような生活を送るうち、どうにか親孝行をしたいと強く思うようになりました。その当時、大学生だった長嶋茂雄氏が2000万円の契約金で巨人に入団する出来事を見て「これをやれば親孝行ができる」と思った私はすぐに野球を始めました。プロを目指して熊本県へ行きましたが、体格の違い、レベルの違いを思い知ったのでした。これが勉強に打ち込むようになったきっかけだったと思います。その後、東京大学へ進学することとなりました。
当時、東京大学を卒業した後の進路というのは官僚や銀行員というようなエリートコースが主流でした。私もその道に進むことが親孝行へつながると思っていました。しかしながら、仲間と議論をするうちに「同和問題」や「貧困問題」などに出会い、自分の家族だけ貧困から脱出することがだんだん卑怯に思えてきまして・・・。それをきっかけとして、弁護士を志すようになりました。一週間で100時間くらい勉強しましたね。大学入試の10倍くらいはやったと思います。
司法試験に合格した後、1970年代後半というのは「サラ金」が大きく社会問題化しているころでした。現在で言われる「ヤミ金融」のような取り立てを行っており、行き詰った人が弁護士会の相談窓口に押し寄せていました。相談料を払えないと見込まれたその人たちは、次々とたらいまわしにされ、それがまた弁護士会の中で問題となって苦情が多く寄せられるようになりました。そこで目をつけられたのが私だったんです。当時は稀だった多重負債者の弁護を引き受けることになり、朝から晩まで行われる取り立てに事務所で対応していました。中には自殺を図っている人も相談に来るようになりました。「これは大変な事件を引き受けた・・・」と思いながらも、人の命がかかっているこの問題を扱えることにやりがいも感じていたことも事実です。その後、「サラ金相談窓口」を設けるに至りました。
坂本堤弁護士一家殺害事件は私の胸に深く刻みこまれている出来事です。オウム真理教問題に取り組んでいた坂本弁護士の奥様が私の事務所で勤務をしていた時期があったんです。子どもを連れて事務所に遊びに来ていたこともありました。坂本一家が失踪をした直後の1989年、弁護士有志の団体として「坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会」が結成され、救出活動を行っていました。しかしながら、1995年坂本一家は遺体となって見つかるという最悪の事態を迎えました。私はその時を境に、オウム真理教問題から離れられない、決して離れないという使命感を持つようになりましたね。死ぬまでその問題は受け継いでいかなければならないと思っています。弁護士というのは、必ず一方の代理人にしかなれません。そういった意味では、恨まれることもありますし、覚悟をしていなければなりません。
今日の日本における大きな社会問題の一つとして『貧困』が広がっているという現実があります。貧困故に自殺に追い込まれたり、ホームレスになってしまうことがあり、これは人権問題であるとも言えます。本来であれば貧困状態に陥ってしまっても、その方たちが弁護士にアクセスしやすくなるような法律扶助制度があるのですが、残念ながら日本はまだ整備が行き届いていません。ですから、私はこの問題に対して、積極的に改善していかなければならないと考えています。具体的には、私が会長となってすぐに貧困問題対策本部を設置しました。今後はこの問題の早急な解決、そして、司法のセーフティーネットである民事法律扶助の抜本的な改革を行っていくことが私の大きな目標です。
こちらでスケジュール管理をしています。弁護士会館で売っているものです。
貧困は目に見えないという事から、貧困のオバケを成仏させよう!というコンセプトでデザインしました。白と黒の2種類があります。