高校時代は、小倉隆史、中田一三とともに「四中工三羽烏」と呼ばれ活躍し、選手権を制覇。1992年にジェフユナイテッド市原(当時)に入団。長く「クラブの顔」としてサポーターに愛されてきたが、2004年に横浜F・マリノスへ移る。2005年シーズン、第15節の名古屋グランパスエイト戦で史上10人目のJリーグ通算300試合出場を達成した。2006年11月28日、退団。2007年6月22日に現役引退。 引退後はワールドカップに出場した経験を活かし解説やイベントで活躍。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 |
最初はサッカーがすごくやりたいという訳ではありませんでした。遊びでサッカーチームに入れてもらっていた程度で、そこからのめり込んでいきました。もともとスポーツは好きで、全般的に得意でした。最初に憧れた選手はペレです。小学6年生の時、中学生との試合に勝ってしまい、中学校に入ってからは先輩たちに「生意気」と思われ、いじめられる事がありました。試合中に足をわざと踏まれたり・・・、サッカーどころではありませんでした。サッカーを辞めたいと思ったこともありましたが、このときの辛い経験がその後のサッカー人生を支えてくれました。
サッカー選手になろうと思ったのは、小学校4年生の時です。テレビでワールドカップ見て、とてもかっこいいと思いました。ちょうどその後すぐにJリーグが発足し、さらに気持ちは大きくなっていきました。
中学校でサッカーに集中できなかったことから、高校に入学後メンバーになれるのか最初はとても心配でした。転機が訪れたのは、コーチにサイドバックになることを薦められた時です。正直、最初は自分のポジションに満足できないこともありましたが、だんだん自分にあっていると思うようになりました。入学後、1年生の時にチームメイトと「卒業するまでに優勝しよう!」と誓い合った事を今でも覚えています。
日本が初めて出場したワールドカップでフランスのピッチに立った時です。アルゼンチン戦、前日はそんなに緊張しませんでした。しかしながら、試合当日はテレビで見るようなスーパースターばかりが周りにいて「この人達と対等に戦える・・・」と思ったら、武者震いが止まりませんでしたね。逆にやる気がみなぎり、全力でプレーできました。
夢を実現する為に、今までたくさんの努力をしてきました。夢や目標を持つ事で、たくさんの経験ができました。夢を持つために一生懸命頑張る素晴らしさを、子どもたちに伝えていきたいと思っています。また、指導者としてスピードを出せるサッカーのできるような指導をしていきたいと思っています。
中学生の時から釣りが大好きで、今も続けています。仕事の合間に時間を見つけてよく釣りをしに行きます。これはBudd&Joey Companyのもので、ルアーの中で一番綺麗だと言われています。
日本がワールドカップ初出場を決めた時のものです。「ジョホールバル」の歓喜の日の夜に、チームメイトの全員のサインを書いてもらった思い出のユニフォームです。