1946年京都市生まれ。同志社大学卒業後1969年吉本興業株式会社入社。横山やすし・西川きよしのマネージャーを務めた後、漫才ブームのなか東京事務所を開設。大阪本社復帰後は、名古屋、札幌、福岡、岡山に事務所を開設するなど、吉本興業の全国展開を図る。2002年常務取締役大阪本社代表を最後に退社。以降「有名塾」塾長などを務めた後、大人のためのフリーマガジン「ファイブエル」を創刊、編集長を務め、実部数10万部を超える媒体に育てる。
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最初はプロ野球選手になることが夢でした。小学校の時はソフトボールをやっていて、中学に入る時にはわりと自信はある方でした。それでも、中学に入学したばかりのころはボールにも触らせてもらえず、外野で騒いでいるだけでしたね。こんなことをしていても仕方がないと思ったので、私は父に平安高校(京都の野球名門校)に進学させてくれるよう頼みました。当時憧れていたのは阪神タイガースの吉田選手でした。「吉田選手みたいになる!」と言っていたものの、父に「絶対無理や」と言われ普通の公立高校に進学しました。その時にプロ野球選手の夢は諦めました。
学校に行っているころは、試験で点数をとったら高校でも大学でも入学できるんですよね。しかしながら、就職は違います。いくら点数を取ったとしても、その会社が自分の企業と社風が合わないと感じたら、入社することができませんから。そういう経験というのは、就職するまですることがないと思うんですよね。私も大学を卒業する時に新聞社を希望して、就職活動をしていた訳ですが、最後の最後「身体検査」で落とされてしまいました。実はある背景があってそのような結果になったのですが、当時の私がそれを知る訳もなく・・・。社会というのは「理不尽」だと感じましたね。しかしながら、6次選考の段階で落とされた時に他の選考中の企業を見ても、自分が志望したいと思える企業が残っていなかったんです。残っていたのは渡辺プロダクションと吉本興業でした。音楽にはそこまで興味がなかったので、吉本興業を選ぶこととなりました。
当時吉本興業というのは世間的に蔑まれた存在だったんです。親にも友人にも「本当に行くのか?」と何回も聞かれました。それでも、「縁があったのはここなんだから」と思い、吉本興業に就職することを決めました。梅田やなんばの劇場に比べてマイナーだった京都花月に配属されたものの、売れない芸人ばかりが集まり、毎日同じことの繰り返しで1年経った時に人事課長に直談判をして制作部(芸人のマネジメントなどをする部)に変えてほしいと伝えました。希望が通り制作部になったのですが、先輩たちが私に何かを教えてくれるということは少なく、暇を持て余していました。そこで、数少ない芸人の営業に同行することにしたんです。その時に一番仲良くなったのが、年齢も近かった「やすきよ」でした。そのまま自然な流れでマネージャーのような仕事をするようになりました。
ものを決断する事というのは人生の中で何回もあると思うのですが、私はこれまで必ず「しんどい」方を選ぶようにしてきました。楽な方を選んだらろくなことがありません。吉本興業の常務取締役に就任してから、吉本の芸人を見る中でやはり「自分の年齢±10歳」でないと面白く感じなくなっている自分に気が付きました。ダウンタウン世代になると、もう面白く感じないんです。そうなった時に分からない者が判断をするのはおかしい、「もうここは自分のいる場所じゃない」と思うようになり、2002年10月に吉本興業を退職しました。
男として生まれてきた以上、どこか壁に爪痕・自分の生きてきた証を残したいですね。今は次に爪痕を残す場所を探しているところとでも言いましょうか。まだまだ旅の途中ですね。
昔は少し高級な眼鏡をしていましたが置き忘れてなくすことが多かったため、デザイン性もあり、なくしてもよいものとして選びました。ケースも必要なく持ち運びに便利なので、胸ポケットに入れて、これを愛用しています。
5年ほど前の5L(ファイブエル)発刊時、京都のきもの関係の友人が作ってプレゼントしてくれました。