1970年に吉本興業に入社。「アメマ」「かい~の」などの名作を生み出し関西で絶大な人気を獲得する。1975年には『ひらけ!チューリップ』で歌手デビューを果たし100万枚のセールスを誇るなど多彩な才能を発揮。2008年12月にはレギュラー番組を全て降板しアースマラソンに挑戦。4万1000kmにも及ぶ距離を途中癌を患いながらも走りきる。現在は若手の育成に注力している。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 |
事故で入院した18歳の時、見舞いに来てくれた中学3年の頃の同級生と病室で何気なくラジオを聞いていたんです。そこでたまたま岡八郎さんの話を聞いて「自分もこんなのやってみたいなー!」と思わず言ったらそれを聞いた友人が「紹介したろうかー」と。よくよく話を聞くとバイト先のディスコの支配人が芸能界でマネージャーをやっているらしく3日後、退院しすぐに紹介してもらったのがきっかけです。
「流れ」というのをとても大切にしています。水が上から下へと流れるように自分も流れには逆らわないようにしています。「かい~の」というギャグも舞台上でバレないようにお尻を掻いていたらめだかちゃんに「なにしてんのー」と言われた流れで出来ました。東京進出のきっかけは、営業先で泊まった旅館で夜バッと目が覚めた時に畳の目が「東京行け」と。すぐに「僕、吉本辞めます」と、こうなった訳です。「ギャラ5倍欲しいのか!」とか言われたりしましたが「畳の目が行け言うた」と言い切りました。
あまり覚悟は決めてないけどアースマラソン中に癌が見つかった時は死の覚悟をしました。転移が見つかり奥さんに日本での手術を勧められましたが「俺は帰らない」と貫きました。もし仮にダメになって途中で死ぬとするじゃないですか。それはそれで良いかと。だって一生残るやろ!と思いましてね。そういう命の覚悟は決めていました。
僕が見る限りではさんまちゃんが格好良い。一言で言ったら本当に優しい。そんなさんまちゃんに芸風を全部変えられた「関西で自分の番組やるからやりっまっか」と言われて出たのが『痛快!明石家電子台』でした。クイズ番組なのに当てに行ってはいけないんですよ。おもろいボケをどんどんやっていかなあかんのです。だから脳が完全に『ボケようとする脳』になって行きました。ジミー大西もそうだけどボケてボケて訳分からない状態になる。その状況を全部作れるのがさんまちゃんなんです。
吉本興業で46年やらせて頂いて今となっては新喜劇の若手もいっぱいいます。その若い子達の為に何か出来ないかと考えたときに『間座』を立ち上げることにしたんです。吉本に入ってくる子達を見てるとみんな虫みたいな顔をしてるんですね。だから虫の芝居をやろうと思いまして!それが上手いこと成功したら自分の中ではもういいかな、と思います。
今後、歯を食いしばらなくてはならない事がいっぱいあります。だからといって甘えてはいけません。甘えず私のパワーを受け取って下さい‼
いつも持ち歩いていて、時間があると握っています。
アースマラソン中も使っていたカバン。鈴は新幹線でカバン盗まれそうになっても気付けるように防犯用。