1995年千葉ロッテマリーンズ入団。1年目から小宮山、伊良部等とともにローテーションの一角として活躍。その後、最多勝、最優秀勝率などさまざまな賞を獲得し、リーグ、そして球界を代表する投手となり日本代表としてシドニーオリンピックにも出場。2001年から怪我に悩まされ続けるも、2005年に執念の復帰を果たし、2勝をあげチームも31年ぶりの日本一を達成。2007年10月、惜しまれながらも同年12月に現役引退を発表。現在、ニッポン放送、BS12 Twelly において野球解説を務める傍ら、「ジョニープロジェクト」を立ち上げ、野球の更なる発展、普及活動に力を入れている。
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私が生まれた宮崎県日向市は、山や川、田んぼが広がる穏やかな場所でした。幼いころは、家の中でじっとしていることはほとんどなく、近所の子どもたちと暇さえあれば太陽の下で走り回っていました。2歳年上の兄に連れられて行った草野球が私の野球との出会いでした。兄の友だちに教えられたのをきっかけにソフトボールの少年団に入ることになりました。小学校に入学して間もないころの出来事でした。幼いころから野球を楽しんではいたものの、将来の夢が「プロ野球選手」というわけではありませんでした。父の職業であったトラック運転手が当時の私の夢でしたね。寡黙な父を含め、「父や母の笑顔が見たい」という気持ちが私のプレーの原動力となっていました。
小学校ではソフトボール、中学校では野球に打ち込む生活を送った後、特待生として野球の名門・宮崎県延岡学園に入学しました。中学生の時にエースになれたわけではなかったのですが、私のプレーに何かを感じてくれていた人がいたのだと思います。苦しい練習に耐え抜いた高校3年生の夏、宮崎県大会を制し、甲子園出場を決めた時の感動は今でも忘れることができません。高校を卒業してからは新王子製紙春日井(現王子製紙)の社会人野球に所属していました。その時の原体験が私のプロ野球入りの直接的なきっかけになっているのではないかと思います。入社2年目には「困ったら黒木に投げさせる」と言われるほどにチームの信頼を集めるようになっていました。やがて、千葉ロッテマリーンズのスカウトの目にとまり、私はプロ野球への扉を開くことになりました。
1994年千葉ロッテマリーンズからドラフト2位で指名され、プロ野球の世界に足を踏み入れることになりました。社会人時代の経験に自負を持っていた私は当然のように背番号はエースナンバーをもらえるものと思っていました。しかしながら、実際にもらった背番号は「54」。拍子抜けをしていた私に、当時「54」をつけていた石田雅彦さんが「オレが9年間、54番を温めておいてあげたよ。だから、ジョニーはきっと活躍できる」という言葉をかけてくれました。その後、石田選手の献身的に選手をサポートする姿を目にするようになって、その言葉に込められた本当の意味に気付きました。その意味がわかってからは、「背番号54をエースナンバーにするんだ」という強い思いで、プレーに取り組んでいましたね。結果、現役生活を通して背番号54を手放すことはありませんでした。
1998年7月7日、千葉ロッテマリーンズ16連敗で迎えたオリックス戦。不名誉な記録を止めるべく、全国からファンが結集していました。集まったファンの声援を全身に受けて「絶対に負けられない。勝つ。」と強く決意し、登板しました。9回裏2アウト「千葉ロッテ3-オリックス1」、この一球で試合を終わらせるという気持ちでボールを投げました。同点2ランホームランを打たれてしまい、そのまま私はマウンドにうずくまりました。その時に小宮山悟さんからかけられた言葉が今も私の心に深く刻まれています。「まだ同点。サヨナラ負けじゃないんだから、立ちあがって投げ続けなければいけない。」この瞬間から私のピッチングスタイル・人間像が変わっていったのだと思っています。
すべてにおいて支え合う思いやりと優しさ、野球を通じて私はこの2つを学びました。選手時代から自らの経験を通じて、野球の恩恵を子どもたちに伝えたいという気持ちがどこか頭の片隅にありました。その実践として一歩踏み出したのが現在行っている「ジョニープロジェクト」です。野球の技術だけでなく、人間性もそれを通して育んでいくことが私の今の目標です。
引退してからスコアブックなどものを書く事が多くなったので、今では必需品ですね。引退をした時にいただいたものです。
メンタルトレーニングの先生からのいただき物です。なかなかない石らしく、お守りのような存在です。野球人生に命をかける勇気を与えてくれました。