1968年2月水戸市に生まれ、12月に足利へ。1986年栃木県立足利高等学校、卒業。1994年東京医科大学卒業。1994年東京医科大学病院、眼科学教室入局。1997年国立感染症研究所、感染病理部留学。2002年Tibetan Delek Hospital (Dharamsala, INDIA)へ。2003年帰国し、足利へ。2006年柏瀬眼科、院長。2009年東京医科大学病院、眼科講師。2021年医療法人柏瀬眼科、理事長。
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元々は医師になることは嫌でした。それはわが家が先祖代々医師の家系で、私がその8代目。それゆえに幼少期から「お前は医者になるんだ」と家族だけでなく、親戚や近所の方からも言われ続け、どうにかそのレールから外れる方法を画策していました。そこで高校3年の時に母親に政治家になりたいと伝えたところ、次の2つの言葉を言われました。「医者になっても政治家にはなれるけど、政治家になって医者にはなれない」さらに「お前は一人二人を騙せても、国民を騙せるタマじゃない」と。確かに!と思い、医学部に進学し、医師になりました。今も思うことは「さすが、私の母だ」ということです。
皆がやりたがらない手間の掛かる重箱の角にある仕事を敢えてやることにしています。箱の真ん中にある本道を多くの人がやっています。勿論そこもやりますが、私たちがその周辺を埋めることで、結果として皆で箱全体をカバーできる、と考えています。具体的には、視覚障害者のロービジョンケア、子供の斜視弱視外来や近視進行抑制治療、入院設備の維持や往診、子供達に盲導犬と触れ合ってもらい偏見をなくして親しみを小さい時から持てるようにするためのセミナー、視覚に障害があっても耳と心で楽しめる落語会などを行なっています。費用対効果は良いとは言えませんが、その分、多くの和顔に出会えます。
地元に帰って開業医になる前の最後の足掻きとして、ダライ・ラマ14世をはじめとする亡命チベット人が住むインドのダラムサラで、1年間の医療活動に従事しました。眼科医9年間での知識と経験を携え現地に赴きましたが、文化や環境の違いに苦悩しました。手術を予定しても患者が来ない、診断をしても医療機器がないため治療できずに患者さんをそのまま帰すしかなかったことなど。今まで歩んできた自分の人生とは全く異なる出来事に苛立ちと悩みに苛まれていたところ、ふと気付いたのです。彼らの習慣(文化)を変えるはできないのだから、自分が変わって彼らに合わせるしかないこと。そして自分が出来ると思っていたのは自分の実力でなく、大学病院という環境とバックグランドがあって出来ていただけだったということでした。ゆえに物がなければ、考えて今ある物でどうにかするしかない、という覚悟を決めました。それが今でも役立っています。
まだ世の中にはない自分の理想に向けて、自分の利でなく誰かのために懸命に生きている。しかもどんな辛いことがあっても、和顔でいられる強さをもっている人です。その揺るぎない精神的強さを芯に持ちたく、本を読んだり、人と話をしたり、仏教の勉強や実践(読経、坐禅、五体投地)をしていますが、まだまだ。しかし自分の理想に向けて今日も邁進しています。
すべての病気を治し切りたい。また病気にならないように予防し、かつ病気になっても自己治癒力で治せるようになる世界を作りたいと思っています。理想は、医者のいらない世界です。そのために今まで学んできた西洋医学だけでなく、統合医療にも目を向け勉強中しています。私の胸にある師匠の有り難いお言葉です。「病気は治るようになっちょるばい」(バイオレゾナンス医学会 矢山利彦理事長)「病気になるシステムがあるということは、病気が治るシステムもあるはず」(日本気導術学会鈴木眞之会長)。
海外に出て、外からこの日本を見てください。これほど素晴らしい文化、歴史、を持った国、そして日本人の心の美しさや技術力の高さ、食事のおいしさ、そして世界の人から我々日本人がどれほど信用、信頼されているかを知ってほしい。そして世界に誇るこの美しい国を、次の世代、その次の世代に継いでいって欲しいです。今の私たちの世界は、私たちの先人が築いてくださったものです。その恩を次の世代に継いでいく「恩送り」をし、日本発で世界を幸せにしましょう。
マニ車を1回回すと、お経、真言を1回唱えるのと同じ功徳があるとされています。本来の大きなマニ車は手で回しますが、この小型のものはソーラー式で自動で回ります。
世界の広さを感じるとともに、夢が広がります。そしていつかこの美しいガイアを、宇宙から自分の目で見てみたいです。