私のカクゴ

バレーボール全日本女子監督 眞鍋政義
まなべまさよし

眞鍋政義

兵庫県生まれA型
職業:バレーボール全日本女子監督
趣味:旅行、温泉
座右の銘:チャレンジ精神

全日本女子バレーボールチーム監督。大阪商業大学卒業後、新日本製鐵入社。日本男子バレーボール界をリードする。選手兼監督でリーグ優勝を経験。引退後は女子チーム、久光製薬の監督を務め2年目でチームを優勝に導く。2009年全日本監督に就任し、2010年世界選手権では32年ぶりのメダルを獲得。【JVA承認 2011-02-009】

来歴

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幼少~学生時代

幼少のころから明るく、プラス思考でした。兵庫県姫路市の生まれで、毎日のように姫路城の下で暗くなるまで遊んでいましたので、いつも両親に「早く帰って来い!」と怒られていました。小さい頃は野球少年で、王さんや長嶋さんの応援をしていましたね。

バレーボールの道へ進んだきっかけ

中学校1年のときに王さんや長嶋さんのポジションに憧れて野球部に入部しようとしましたが、顧問の先生から「キャッチャーをしろ」と言われ、入部を迷っていました。その時に他校から来た担任の先生にバレーボールを勧められ、入部したのがバレーボールを始めるきっかけでした。その当時身長は学校一で、少し練習すればすぐスパイクが打てるようになり、とても楽しかったですね。中学校の後半には1m83cmあったのでバレーをするには恵まれていました。厳しい練習も友人たちのおかげで乗り越えられましたし、友人たちがいたから最後まで続けることができました。

ターニングポイント

高校入学後は、春高バレーやインターハイに出場するために必死に練習しました。1年生の大阪予選の時に、エースが怪我をしてしまったため私が急遽代わりに出場しましたが負けてしまいました。その日の練習時に監督から、眞鍋は「セッターをしろ」と言われ、セッターに転向したことがターニングポイントです。6月の後半からセッターを始め、1か月で日本一になれたことは、私にとっても衝撃的でした。ただ、日本一になるためには死に物狂いで練習をしたので・・・今思い出しても、すごかったですね。大学4年生(1985年)の時に神戸で行われたユニバーシアードで優勝、同じ年のワールドカップでは6位になりました。ワールドカップはテレビ中継もあったので、そこから男子バレーが盛り上がったのが印象的でした。

覚悟の瞬間

32、3歳からずっと迷っていましたが、新日鉄が2年連続優勝したことをきっかけに、36歳でイタリアのクラブチームと1年間プロ契約をしたことが私のターニングポイントで覚悟をした瞬間でした。日本では年功序列ですが、プロの世界は弱肉強食。若くても才能があったら、年齢関係なくレギュラーになれるので、「もっと早く来れば良かったのに」とよく言われました。その後日本に戻り数年プレーした後、40歳で女子チームの監督に誘われました。選手としてのプロ契約が後1年ありましたが、男子では十分やったと思い、2004年に女子バレーに挑戦したこともポイントとなりました。

今後の目標

監督としても個人としても今は、ロンドンオリンピックで金メダルをとることが目標です。個人としての夢はまだこれ以外考えられないですね。笑

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お気に入り

タブレット型コンピューター

世界選手権で使用しましたが、リアルタイムにいろんなデータが見れたので、非常に良かったです。メダルを取れた一つの要因だと思います。

シューズ

日頃練習でこの練習シューズを使用しています。インソールは別の会社のものとなりますが、自分に合わせて作っているので、昨年まで腰痛に悩まされていましたが、これを履いてから問題なく過ごせています。