エネルギー安全保障、危機管理、国家安全保障、外交、および包括的な国家戦略立案の専門家、作家(純文学からノンフィクションまで出版している)、株式会社 独立総合研究所社長・兼・首席研究員。 近畿大学経済学部客員教授(国際関係論)。総合資源エネルギー調査会(経産省)専門委員、原子力委員会(内閣府)原子力防護(核セキュリティ)専門部会専門委員、海上保安庁政策アドバイザー。慶大文学部中退、早大政経学部卒業後、社団法人・共同通信社に入社し1997年12月依願退社。三菱総合研究所を経て、2002年4月 独立総合研究所を創立。
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子どものころから本を読むことと、ものを書くことに親しんできたので、物書きになろうとごく自然に思うようになっていきました。書く前に世の中をたくさん見たいと思い、また、その世の中を少しだけ良くすることにつながると考えて、大学時代に「まずは記者になろう」と決めました。
主義主張の違い、立場の違い、あるいは年代世代の違いは関係なく、「人の懐の中に入る」ことの大切さを体で学んだのが共同通信社の記者時代でした。ペルー事件をきっかけに記者であることを辞める決心をし、共同通信社から三菱総合研究所に移籍しました。
三菱総研に移籍し研究員として4年3か月、働くあいだに痛感したのは、日本のシンクタンクは旧財閥や証券会社や銀行とつながっていて、あえて申せば既得権益の中にいることでした。たとえば政府がシンクタンクに「海の埋め立ての環境アセス(評価)」を委託するとき、あらかじめ「環境に影響なし」という結論を示した上で、その根拠づくりの調査・研究を委託してきたりする(これは三菱総研に、という意味ではなく、あくまで仮の例です)。わたしは『どこともつながっておらず、ヒモがついていない民間の知恵』が絶対に必要だなと確信して、独立という名を冠するシンクタンク(総合研究所)を設立する決心をしました。それが独立総合研究所です。
ふたつの覚悟の瞬間が、今につながっています。ひとつは、天職と思い20年近く務めた記者を辞める決意をしたときです。共同通信の臨時特派員として、ペルー日本大使公邸人質事件を現地取材し、大使公邸を占拠したテロリストのなかの14歳ほどの少女が生きて逮捕されながら、裁判にもかけられず国家警察軍によって惨殺されたことをはじめ、隠れた真実を人質の証言から記事にし、すべてボツになりました。記者の殺害を避けるために共同通信の組織としての判断は正しかったと今でも思うが、命がけの証言を生かせなかった記者としての責任をとろうと考えました。コストを含め取材の実態を社が理解しないこともあって依願退社し、三菱総研に移籍。ここでシンクタンクの仕事を学ぶと同時に、日本にない独立系のシンクタンクの必要を痛感し、4年3か月後に独立総合研究所を創立しました。これからも覚悟の瞬間は来るでしょうが、「祖国のために」の志に徹して決断したいと思います。
独立総合研究所(独研)は、わたしたちが点(とも)した最初のともしびです。大きくなる必要はありません。独研のともしびは、たいまつのように受け継がれていくことが大切です。独研の研究本部には、小なりといえども社会科学部、自然科学部、教育科学部の3部があります。たとえば自然科学部の日本海におけるメタンハイドレート(MH)の調査研究は、日本を資源大国に生まれ変えさせる可能性すら秘めています。過大なコストをかけずに、すなわち既得権益から自由に、それでいて正確にMHを探索できる技術を自然科学部長(女性)が開発し、国内特許と国際特許を持っています。しかし日本が資源保有国になると石油メジャーの特権が揺らぐことをむしろ政府(旧政権)が怖れ、質のよい日本海のMHの探索に予算が付かず、太平洋側でだけ調査されてきました。できれば民間の投資も得て、日本海でも太平洋でもしっかり調査し、われらの祖国が建国以来初めて自前の資源を持つことを、切り開きたいと考えています。
身近に持つものは、あたたかみのある革製品などが好きなのですが、この青空色のスチール・カードケースは例外です。このケースは小さいのに、全生活シーンのカードが入ります。そして真ん中からガバッと開くから、気持ちいいほど取り出しやすいんですよね。
公式に認定された耐火性レーシンググラブですから充分な厚みもあるのに、これをはめると指がスリムになる感じがありステアリングやギヤノブが掴みやすくなるという、ちょっとした魔法のようなグラブです。実は、あのセナ(F1)のグラブを作っていた職人の製品です。