全日本大学サッカー選手権大会での準優勝に貢献し、1983年に川崎フロンターレの前身である富士通サッカー部で、主にミッドフィールダーとしてプレーした。1993年からは、指導者としてのキャリアを歩み始め、1999年からはプロ化したFC東京で育成部門の統括者となった。
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学校の帰りに石や落ちているものがあれば蹴って家まで帰り、玄関にカバンを投げ入れて、またサッカーをしに行くくらいサッカーが好きでした。最初のあこがれは1974年西ドイツ開催のワールドカップで見たヨハン・クライフ(蘭)です。そもそもサッカーで食べていけるような時代ではなかったので、できるだけ長くサッカーは続けたかったのですが、社会に出てしっかりとしたビジネスマンになることを思い描いていました。中学では全国大会に出場しましたが、高校は進学校に進みました。この時、徳島県の選抜選手に選ばれたりもしましたが、所詮は井の中の蛙でした。大学は早稲田大学に進み、3つ上には岡田武史さん(現日本代表監督)がいました。私が4年になる時が創立100周年の年でそれに向けて厳しい練習が続きました。しかし肝心の100周年の年は大きな大会ですべて準優勝でした。早稲田は名門なので、おそらく優勝を経験していないのはわれわれの代だけだと思います。
立派な社会人になることを考えながらも、サッカーは続けたかったので富士通を選びました。当時の富士通サッカー部は日本リーグの2部でした。社業では人事・労務管理に就きました。サッカーは6年間プレーし社業に専念しました。最初は要領を得ずに苦労しましたが4年ほどで周りが認めてくれるようになってきました。
社業にも慣れてきたころに再びサッカー部に戻るように「業務命令」がくだされました。せっかく慣れた社業から離れてサッカーをする(コーチとして)のであれば専念してやりたいと思い、社業をせずにコーチを専任しました。その後、富士通サッカー部は川崎フロンターレとしてプロ化することになり、私は富士通サッカー部を離れました。
サッカー部のプロ化に伴い社業に復帰する際に、同期入社の中では比較的早い時期に管理職試験を受けさせていただきました。社会復帰を兼ねて那須工場へ研修に行き、会津若松へと赴任。半導体や工場のしくみ、及び仕事の内容を理解するのに時間がかかり、赴任当初は役職にふさわしい仕事ができていないと感じていました。3か月を過ぎたころ、周りから認められはじめ、夏には会社の戦力となっている実感が持て始めていました。そのころに富士通に遅れて1年、東京ガス(現FC東京)がプロ化のための準備室を立ち上げるため、かねてより交流のあった私を誘ってくださいました。本当に富士通には感謝をしていましたが、サッカー界に戻るチャンスはもうないと思い私はもう一度サッカーの道を選びました。
サッカーはまだ野球のような産業になっていません。そうなるためには自分の関わっている組織が、そして自分自身がブレークスルーし続けることが必要です。U-17のワールドカップに監督として出場した経験で得た「現場は変えられる」という気持ちを持ってこれからも日本サッカー界の産業化を目指して現場からブレークスルーしていきたいと思います。
試合の時にしかスーツは着用していないので、普段は普段着を着用しています。マフラーに関しては厚いもの・薄いもの含めて10個ほどの中からチョイスをし、着用しています。
社会人時代には読んでいませんでしたが、監督という立場なので読み始めました。気になるポイント(マネジメントなどの部分)は線を引いています。フロントという立場でさまざまな方にお会いするので組織論を勉強しています。