1963年当時17歳で上京。マジックスクールでマジックを学び20歳でプロのマジシャンとして活動を開始する。ギャグのセンスにあふれる新しいタイプのマジシャンとして注目を集め続けている。1981年、82年放送演芸大賞ホープ賞連続受賞、1997年奇術協会天洋賞受賞。2004年に出演したNHK『課外授業ようこそ先輩』が第31回日本賞教育番組国際コンクール最優秀番組東京都知事賞受賞。同年、同番組で第38回「アメリカ国際フィルム・ビデオ祭」にてシルバースクリーン賞受賞。2005年ゆうもあ大賞グランプリ受賞。2008年第24回浅草芸能大賞・奨励賞受賞。
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戦後の日本中なにもない時代、9人きょうだいの7番目として生まれました。9人も子どもがいれば、裕福でないのは当たり前でしたし、それを「貧乏」だと思ったこともありませんでした。きょうだいの年齢が離れていたので、兄・姉が弟・妹のご飯を食べさせてあげている感じでしたね。生まれつき目が悪かったのですが、気付かずに生活していました。先生に指摘されて目が悪いことが分かり、母が家のお米とメガネを交換してきてくれました。初めてそれをかけた時のことは今でも忘れられませんね。「こんなに世界ははっきりと見えるんだ!」と感動したことを覚えています。
青果市場で行われる年に一度のお祭り。そのお祭りに来ていたおじさんマジシャンのショーを観たのが、マジックを知るきっかけとなりました。17歳で上京して、夜はバーテンダーのアルバイトをしながら、昼は街のカルチャーセンターでマジックを習い始めました。初めてマジックを見た時の感想は単純に「不思議だなぁ」というもの。謎を解明するのが楽しくて、どんどんマジックに引き込まれていきましたね。
幼いころに母が言っていた言葉が、私の生き方をいつも後押ししてくれているように思います。「みんなと同じである必要はない。むしろ、違っていていいんだよ。」といつも言われていたことを覚えています。すべてを買い与えることができなかった故の理由だったのかもしれませんが、それでも子どもである私は救われていたのです。素直にその言葉を自分の中で解釈することで、楽になることができました。
マジシャンになってから「この時だけは覚悟を決める」という瞬間があります。それは、弟子入りを申し込まれた時。なぜなら、その時の自分の決断がその人自身の人生を左右する可能性があるから。どんなパーソナリティーを持った人が弟子として入ってきたとしても、破門をしたことはありません。世間から見てマイナスと思われるようなことだとしても、それはその人の個性であることは間違いなくて、それを伸ばしてあげるのが師匠の役目だと思っています。
人にやさしく、自分にもやさしく。難しく生きずに、「易しく」生きるのが私のモットーです。人の人生、最後は死ぬと分かっているのなら、楽に生きていきたいですよね。
師匠から借りていたものです。返す前に師匠が亡くなってしまいました。「俺のことを忘れるなよ」という師匠からのメッセージなのではないかと思っています。
「目が悪い」という生まれつきのハンディキャップも、私をこれまで生かしてくれた特徴の一つです。そのおかげでメガネのCMのオファーをいただいたりしたこともありますからね。