覚悟の瞬間(とき)

衆議院議員 長島昭久
ながしまあきひさ

長島昭久

神奈川県生まれA型
職業:衆議院議員
趣味:ゴルフ、水泳、司馬遼太郎、水彩画
座右の銘:至誠天に通ず

慶應義塾大学大学院法学研究科修士課程修了、 米国ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院(SAIS)修士課程修了。中央大学大学院客員教授などを経て、衆議院当選3回。

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来歴

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幼少~学生時代

平均的なサラリーマン家庭に生まれましたが、父の強い意向で慶應義塾幼稚舎に入学し、幼心に「格差」を感じながら育ちました。少年野球に始まり剣道、ラグビー、水泳、スキー、ヨットなどスポーツに没頭していました。高校時代最後の年に仲間と日本で初めてラクロス同好会を創設。大学では応援指導部に所属し、肉体と精神力の限界に挑み続けるとともに「縁の下の力持ち」に徹したことは貴重な経験でした。4年時には、リーダー長として早慶戦の大応援団を指揮し、リーダーシップがなんたるかということをわずかながら実感しました。大学院志願時には、生まれて初めて(正確には小学校受験以来)受験勉強というものを体験しました。それまで1時間以上机に向かっているのが苦痛だった劣等生が、1日10時間以上も専門書を読みふける毎日を送りました。合格発表の瞬間には思わず涙が込み上げたことを覚えています。

政治家の道へ進んだきっかけ

1979年12月、ソ連軍によるアフガニスタン侵攻は世界中を揺るがすともに、私の眼を国際政治に大きく開かせることとなりました。「米ソデタント」といわれた緊張緩和の機運がなぜ突然失われたのか?主権国家にあからさまな侵略を試みたソ連の意図は何なのか?米国をどうするのか?いったいわが国は・・・?しかし、わが国の政治は「40日抗争」の真っただ中でした。直前に発生したイラン革命と相まって、第二次石油ショックによりわが国経済も大きな打撃を受けていたにもかかわらず、相変わらずの内向き、下向き、後向きの派閥抗争という状況に疑問を感じていました。その時に国際政治をリードできるような政治家が日本にも必要だと感じ、国際関係や安全保障を本気で勉強して、そんな政治家を目指そうと志を燃やしました。

ターニングポイント

政治改革・新党ブーム最高潮の1993年春、親友の伊藤達也君(前衆議院議員、自民党)から一緒に衆議院選挙に挑戦しないかと強烈に誘われました。細川氏率いる日本新党から猛烈なアタックを受けて、決断していればもしかすると当選できていたかもしれません。それくらい凄まじい新党ブーム・既成政治家に対する逆風の時代でした。しかし、自分としてどうしても踏ん切りがつかなかったのです。その理由は、「政治家として、これで勝負する」という確信が持てなかったことにあったでしょう。人生最大の挫折でした。数か月悩み抜いた揚げ句の結論は、米国への武者修行へ出ることでした。学生時代以来最大の関心事であった国際関係・安全保障論を本気で修めるため、単身渡米。極貧学生生活の始まりでした。結果的に、その時から10年の歳月を要しましたが、その時の決断こそ2003年衆議院初当選につながるターニングポイントでした。

覚悟の瞬間

覚悟の瞬間は、少なくとも3度ありました。最初は、1984年春、就職戦線へと突入していった大半の同級生たちを尻目に、就職を断念し大学院受験をめざして(法律学科から政治学科へ)学士入学を選択した瞬間です。政治家を目指すという志に燃えていた半面、たいそう心細い思いもしました。第二の覚悟の瞬間は、1993年夏、上述した米国への武者修行決意の時です。そして、第三の、しかも最大の覚悟の瞬間は、2000年秋、衆議院補欠選挙挑戦のため家族(妻と4歳の長女と生まれたばかりの二女)をワシントンに残して、単身帰国する決断をした時です。雌伏7年、ついに訪れた国政への挑戦の機会に武者震いするとともに、この無謀な決断を理解し、幼子を抱えながら私を単身送り出してくれた家内と別れ、独り飛行機に乗り込み窓からワシントンの街並みを見つめながら涙が止まりませんでした。

今後の目標

激動の国際情勢を果敢に乗り切る日本外交の「黄金時代」を築き上げることが目標です。

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お気に入り

置物

大川一刀彫の名工で、岳野博昭師の手による寅(虎)の置物。4度目の年男の今年思い切って購入しました!

ボールペン

2003年に初当選の時に後援会の女性部の方々にいただきました。今でも使っています。初当選の時の票数が刻印されています。