地元の高校を卒業し地元の自動車関係の会社に就職、21歳で結婚し2児をもうける。27歳で離婚、31歳で地元を離れ岡崎に越す。平成9年に知人の紹介で介護の仕事を始める。平成17年に法人を設立する。平成31年一般社団法人とねりこを設立。書籍「100人に1人の私」を出版。
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地元での離婚や母親の死を経験し、自分が人より不幸だと、自分のしてきたことが人を不幸にしてしまったのではないかという思いをずっと持って生きていた。この介護の仕事に出会いお年寄りに心を救われた事、癒してもらえた事がこの仕事を本気でやっていくきっかけになりました。母親の死も難病患者さんをお世話させて頂く事で受け入れられていきました。介護は素晴らしい仕事でありこの仕事を使命してやり続けると思ったことから現在に至っています。
ご利用者さんやそのご家族の方に「のぞみさんに来てよかった」と言ってもらえるサービスを提供していくことが大事だと考えています。私たちの仕事は働くものが笑顔でなかったら人を笑顔には出来ないと思います。その上で、笑顔でいるためには自身が成長する事、人間力を磨く事だと思います。
地元を離れた時です。離婚をして二人の子供を置いてきたので。子供と別れた時は辛く罪の意識もあり、どうしようもなく生きていたが、このままでは落ちぶれていくだけだと。その時書店で手に取った書籍が哲学書のようなもので(題名は覚えてません)その本に共鳴を受け、地元を離れる決意をしました。あの決断がなかったら現在の私はいません。
自分のリスクを顧みず、自分の使命感をはたせる人はかっこいいと思います。海外のドクターの方で自分の命を危険に晒してでも戦場に行き命を救っている方がいまして、その人を見てると自分の使命を果たすために行動し続けているのですごい尊敬してます。私自身はお年寄りを笑顔にする、幸せにすることが私の使命なのでその使命を果たせるように進み続けるのみです。
介護だけではなく、福祉と人が関わっていける場所を作ることです。そこにいる人たちの笑顔が想像できます。死と関わる仕事をしてきた中、最期を迎えるた時に迎える側も送る側も少しでも悔いの残らないようにしたいと思うようになりました。そこを形にすることです。
私は大学は出ていません。若いころはやりたいこともなくただ生きて私は母子家庭で育ち母親が25歳の時に亡くなりました。世の中はなんて不公平なんだろうと。そのあと離婚もあり子供と離れ離れになり、どん底な自分がいました。あまりにもみじめな自分を見た時に「生まれ変わろう」と決意し、地元を捨てました。介護の仕事に出会い私は救われました。この人たちを幸せにするために頑張ろうと。介護の仕事をしていて気づいたのです、確信したことは「人は誰もがいつかは死ぬ」ということです。当たり前の事かもしれませんが、誰も教えてくれないから、気付いていない人は多いのです。誰もが迎える最期、人には寿命がありそれはいつかはわかりません。限りある命なのだからとことん挑戦してみてください。いくらでもやり直しはききます。せっかく人として生まれてきたのだから、動物では出来ないことが出来るんです。人として生まれたことにはきっと意味があって人しかできないことをすること。精一杯生きることそして自分の欲だけではなく人のためなることをすること。どんどんチャレンジしてほしい、そこには困難が伴うけれど乗り越えてほしい。困難に立ち向かうには勇気がいるけれど倒れず、努力してほしいと思います。チャレンジしなえれば本当に自分のやりたいこと、やるべきことにたどり着けないのでないかと思います。人を思う気持ち・愛と勇気をもって生きていってほしいと思います。
娘が小学生の頃に書いてくれた手紙です。読み返すと、その頃の風景が浮かびます。私への感謝と仕事を気遣ってくれている内容です。嬉しくもあり今となっては私が仕事に一生懸命で小学低学年の娘にずいぶん我慢をさせてしまったという思いもあります。大切な大切な宝物です。
母の形見です。田舎での暮らしでしたが、特別なお出かけの時にはいつも付けていました。少し手を加えてアレンジしています。なかなか仕事上指輪をする機会はありませんが、母同様、特別なお出かけの時には付けています。