私のカクゴ

アテネ・北京五輪体操メダリスト 冨田洋之
とみたひろゆき

冨田洋之

大阪府生まれO型
職業:アテネ・北京五輪体操メダリスト
趣味:ゴルフ
座右の銘:初志貫徹

8歳から体操を始める。高校1年生の時にビタリー・シェルボの演技に魅せられてから、めきめきと頭角を表し、インターハイ2連覇。特に1998年は、高校選抜・インターハイ・全日本ジュニアの3冠を達成し、ジュニアのトップに登りつめる。2001年全日本で初の個人タイトルを獲得。2002年NHK杯、2002年全日本、そして2003年NHK杯でトップの座を確保し、日本のエースとしての地位を築く。「美しい体操」を目指し、オールラウンダーとして、2003年の世界選手権では、個人総合3位となり、世界のトップの仲間入りをする。アテネ五輪では団体最終種目・鉄棒の最後の演技者として登場し、見事「伸身の新月面宙返り」の降り技をきめ、団体総合金メダルを獲得。2005年は11月に行われた世界選手権メルボルン大会で、個人総合チャンピオンとなり、日本人31年ぶりの快挙となった。2006年の国際体操連盟の大幅なルール改正の中、国際大会に日本代表として出場し続け、2008年北京五輪団体銀メダル・個人総合4位という成績を終えて、現役を引退。現在、順天堂大学スポーツ健康科学部助教。体操競技部コーチ。日本体操協会JOCコーチングディレクター。

来歴

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幼少~学生時代

休み時間になるとすぐにグラウンドに駆け出していく、運動が大好きな子どもでしたね。1つ上の兄がいたので、いつもいろんな所へついて歩いていました。もともとは、体を丈夫にする為に母に勧められたのが体操でした。

体操の道へ進んだきっかけ

母の勧めで友だち一緒に体操クラブを見学に行ったのですが、正直私自身は体操をやりたいとは思いませんでした。一緒に行った友だちが「どうしても体操がやりたい!」と言い始め、私も一緒に始めることに。イメージすらつきませんでしたし、「体操ってなに?」というレベルでした。教室は週1回。休んだことはありません。上級生が休み時間に、軽々とバック転や側転をしているのを見て、自分もそれをやってみたいと思うようになりました。それが体操に夢中になったきっかけですね。バック転や側転ができたら、次はこの技、その次はこの技・・・、とさまざまな技を覚えることに一生懸命になっていました。

ターニングポイント

シドニーオリンピックの代表選考会は私にとって忘れられないものとなりました。当時、「あわよくばオリンピック出場」という思いがあり、今思い返すとなんて甘い考えだったのだろうと思います。一次選考と二次選考はギリギリで突破しての最終選考だったので、どう頑張ってもオリンピックには届かないと思っていたのですが、最終選考の現場の雰囲気を経験して、気持ちが変わりました。緊迫する現場や、緊張する先輩の表情を目の当たりにし、自分にスイッチが入ったことを覚えています。

覚悟の瞬間

アテネオリンピックの決勝、ポディウムに上がる前はまさに覚悟の瞬間でした。「失敗したら、日本へ帰れない。引退しよう。」と思っていました。そのように思うことで、吹っ切れたところもあると思います。それまで積み上げてきた練習もありましたので、自信があったことも確かでした。鉄棒の演技の離れ業の「コールマン」が決まって、バーをもった瞬間に会場からものすごい歓声が上がり、自分でも鳥肌が立ったことを覚えています。

今後の目標

「体操の新生日本」として、後進の指導にあたっていきたいと思います。自分の経験を押しつけるのではなく、選手それぞれの持ち味を引き延ばし、材料を与えていける指導をしていきたいですね。体操競技の普及も幅広く行っていきたいと思っています。

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タブレット型コンピューター

メールはもちろん、練習の際に使う資料などもこれで見るようにしています。使い方次第で、もっと有効に使えると思います。

時計

お世話になった方に、選手引退時にいただいた時計です。大切に使っています。