私のカクゴ

放送作家 元祖爆笑王
がんそばくしょうおう

元祖爆笑王

秋田県生まれO型
職業:放送作家
趣味:ボーリング
座右の銘:人生は前向きに

日本大学芸術学部卒業。大学時代、落語研究会に所属。大学2年時に放送作家・高田文夫氏に出会い師事。大学に通いながらも、「高田文夫の弟子」として放送作家の仕事をこなしていく。卒業と同時に、数々のテレビ、ラジオ番組の構成を担当。26歳でテレビでは初となるゴールデン番組を担当した後、『めちゃ×イケてるッ!』『爆笑レッドカーペット』『爆笑レッドシアター』など、数多くのテレビ、ラジオのバラエティ系のレギュラー番組や特番を手掛けるほか、お笑い学校や大手プロダクションの講師なども勤めている。

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来歴

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幼少~学生時代

好奇心旺盛だったのでドリフターズの公演があれば駆けつけ、サザンオールスターズの公演があれば見に行くといった幼少時代でした。当時から、何でも興味を持つという考えはありました。高校時代には学園祭でお見合い番組で人気があった、『パンチDEデート』のパロディーを体育館で行い、司会をしました。1000人以上の学生を前にして、自分が喋った一言でドカンと笑いが返ってくる。まるで打ち寄せて来る波の様に笑い返って来て、その快感を得た時に「これを何か商売にする事は出来ないか」という発想が芽生えました。それは、漠然と「テレビを見ている方ではなく、その中に入りたい」という気持ちだった様に思います。学園祭で笑いをとった事が、将来の夢に繋がったという感じです。

放送作家という仕事を始めたきっかけ

当時、たけしさんとの番組を数多く手掛けて、放送作家の第一人者と言われる落語研究会のOBの高田文夫先生が、那須高原で行われた合宿に現れ、稽古を見て下さりました。出会ったその日の夜に朝まで酒を飲まされて、いろいろな貴重な話を聞いたり、話したりするうちに、事務所でバイトの話になり、当時バイトはしてなかったので、大学と通いながら、高田さんの事務所でアルバイトをさせて頂く事になりました。

印象に残っているエピソード

最初はラジオなどの仕事をやっていたのですが、実は、放送作家ってどんなものか良く分かりませんでした。高田さんから文章の書き方を習った訳でもないので、とにかく企画会議でプレゼンし面白い事を考える。その為には、良く喋る、話せるようになる事が必要でした。そんな事を繰り返す中で放送作家というものが次第に分かって来たという感じでした。26歳の時に『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば』という番組でエンドロールに名前が出た時に「自分は放送作家としてデビューをしたんだ。」と初めて実感しました。

覚悟の瞬間

高田文夫さんの運転手をやっていた頃、周りの人間は大学卒業して、就職して、お金持っていて、同期の「吉本ばなな」さんや、「中井美穂」さんが活躍している姿を横目に「自分はこんな事やってて良いのか?」と考えた時期がありました。田舎に帰った方が良いのではないかと考えた事もありました。けれども、そんな状況を突き詰めて考えた時に、頭に浮かんだのが高校時代に経験した、あの『笑いの快感』でした。それを味わう為に自分はここで勉強をしているんだ。笑いを一生の仕事にしたいんだ。と思い返しました。「同期に負けてたまるか、いつか逆転すれば良いんだ」という想いが込み上げて来た瞬間でした。

今後の目標

このテレビ業界というものがいつまで安泰か分からないですが、歳をとっても、おじいちゃんになってもずっと「笑い」を提供していきたいと思っています。ライブハウスでも作って、そこの支配人か何かになりたいなと思ったりします。今まで教えてきた芸人達が日替わりで出演する。そんなお笑いライブをやりたいです。とにかく、死ぬまで「お笑い」を仕事としてやっていければ良いと思っています。

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お気に入り

千社札

放送作家としてデビューして現在のペンネーム、元祖爆笑王という名前で活動を始めた時に橘流寄席文字の継承者・橘右橘さんに書いていただいたものです。寄せ文字で文字間隔を詰めて書かれていますが、「人がたくさん集まるように」という思いが込められています。

オリジナルボーリングシャツ

趣味のボウリングが高じて、番組となった「お笑いチャンピオンボウリング」。その立ち上げ当時に制作したボーリングシャツです。お笑いボウリング部の監督も務める程、ボウリングに対する想いは熱いです。